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言葉と技術

歌会に向く短歌? 歌集に向く短歌?

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ご質問ありがとうございます。

そして、時間が経ってからの回答になってしまって申し訳ありません。

質問の内容は、先日公開した「良い短歌のつくりかた」についてですね。

 

ashnoa.hatenablog.com

 

〈良さ〉と〈好き〉のどちらか片方が他方よりも重要になるという現象は、ある作品の提出先となる媒体や場の違いによってではなく、ある作品を提出する際の意図や目的の違いによって起こるものであると思います。

ですので、〈好き〉と〈良さ〉のどちらを重点的に考えるのかを、意図や目的の明確でない状態で、媒体や場の違いのみによって考えるというのは、適切ではないというのが私の回答です。

例えば歌会に対して、あるときは「今日の歌は実験的だけど自分は〈好き〉なんだよな」と思って〈好き〉な歌を出したり、またあるときは「今日の歌は自分が〈好き〉という以上に、みんなにとっても〈良さ〉を感じてもらえる歌のはず!」と息を巻いて〈良さ〉があると信じている歌を出すこともできるでしょう。

上記の例におけるそれぞれの意見の間には、〈良さ〉と〈好き〉の取り扱いの優先順位に違いがありますが、一方で提出先は同じ「歌会」という場です。

提出先が変わっていないのにどうして〈良さ〉と〈好き〉の優先度が変わるのかと言えば、それは歌を提出する際の意図や目的が変わっているからではないでしょうか。

そのように考えるなら、〈良さ〉と〈好き〉の間の優先順位というものは、必ずしも作品を提出する先(媒体や場)の違いには影響を受けませんが、その作品を提出する意図や目的の違いに影響を受けるものと捉えることができます。

ですので、「歌会だから〈良さ〉を優先しよう」とか、「歌集だから〈好き〉を優先しよう」というのは、媒体や場の違いで〈良さ〉/〈好き〉の間の優先順位を変化させようと考えているために、そもそも適切ではないというのが私の印象です。

「こういう短歌であれば歌会に向いている」とか、「こういう短歌であれば歌集やネプリに向いている」とかを語るためには、まず自分自身がその作品をその媒体/場に提出する際に何を意図して提出しようとしているのかをはっきりさせることが重要ではないかと思います。

その上ではじめて、例えば「〈良さ〉があるかわからないけど〈好き〉な歌だから、〇〇という媒体/場が向いてそう」とか、「みんなにとって〈良さ〉があるはずの自信作で、大勢に読んでもらいたいから、〇〇という媒体/場が向いてそう」などの判断ができるようになるはずです。

 

あなたがあなたの歌を、ある歌会/歌集/ネプリ......etc.に提出するのはなぜでしょうか?

その答え次第で、どんな場所に提出するのがあなたの作品や意図にとって最も向いているのかがわかるはずです。