丘と水路と橋と火を

言葉と技術

中庭の木

文芸部の部室の窓からは、ちょうど中庭の木が見える。何という名前の木かは知らない。中庭の湿っぽい地面に確かな根を張って、校舎と同じくらいの高さの身体を支えている、木。放課後、晴れていたなら葉の隙間から夕日が差し込むのだけど、その夕日は淡く、部室は少し薄暗い。そんな風景の中で、僕らの文芸部は活動していた。 

僕らは放課後になると決まって部室に集まった。そうして他愛もない会話をした。机が一つしかなくて、ぎりぎり全員が座れるくらいの長椅子がある、そんな部室で。会話の内容は、専ら最近それぞれが興味を持っていることだとか、悩んでいることだとかで、創作の話は締め切り前でもない限りめったに出てこない。だけど、そんな他愛もない会話の中で僕らは互いの思考に触れ、それが各々の創作に少なからず影響していた。

文芸は、ほんの少し薄暗いものだと思う。孤独な表現形式であると思う。作品を作っているときは限りなく一人で、ひたすらに自分の創作に向き合うことになる。ただ、創作の手を緩めて顔を上げたとき、そこには他愛もない会話から時々は真剣な創作の話まで、面と向かって話せる文芸部の面々がいる。僕にとって(そしておそらくは彼らにとっても)文芸部とはそうした拠り所となってくれるものだったし、そんな文芸部の確かだけれども穏やかな関係性があったからこそ多くの作品や功績に恵まれたのではないかと、今は思う。 

文芸部の部室の窓からは、ちょうど中庭の木が見える。何という名前の木かは知らない。だけど、目を瞑れば今でも思い出せる。葉の隙間を縫う夕日は、部室までは入ってこない。けれどその明るさが、ぼんやりと窓に滲んでいる。もうずいぶん遠くまで来てしまったけれど、文芸部での日々が、経験が、今の僕を支えてくれる。中庭の木を思うとき僕の、僕らの放課後は今につながっている。