丘と水路と橋と火を

言葉と技術

「定型っぽく読める」を考える

1 序論——定型っぽく読める?

歌会など、短歌作品を数名で読んでいるときのことだ。参加者の一人がある歌を一読して、その歌に対する評に移る。私を含めた数名がそれを聴いている。評者による批評が進行して、歌の韻律についての話が持ち上がると、評者が「この歌、すっと読んでしまいましたが、ここで実は破調しているんですね」と気づいて指摘する。そのとき、私(と、もしかしたらもう数名くらい)もようやくその歌において破調構造が存在していたことに気づく——。

あなたも、このような経験をしたことはないだろうか。歌の中に一読では気がつかないような自然な韻律で、なんらかの破調構造が紛れ込んでいる——冒頭に挙げたような話は、評の場で特に珍しくもなく起こり得ることであると思う。しかし短歌という定型詩においてそのような作品が存在し得ること、そしてその破調構造を含む韻律を自然に受け取ってしまえる瞬間があることは、実は非常に不思議なことではないだろうか。

雨はふる、降りながら降る 生きながら生きるやりかたを教へてください

藪内亮輔「花と雨」

マグカップ落ちてゆくのを見てる人、それは僕で、すでにさびしい顔をしている

千種創一『砂丘律』

しろくまカレーライス園 そこではみんながにこやかにカレーを食べてしろくまを見る

溺愛「神大短歌 vol.1」

 

ここに挙げたような破調構造を含む歌が、捉え方によっては自然な短歌定型の韻律で読める可能性を持つことは、個別に説明できるように思われる。例えば一首目であれば、四・五句目において微妙に速度を上げて音の増加を定型内に収めて読むことは可能である。また二首目では句が一つ分増加しているようではあるが、「見てる人、」という部分で読点に従って一旦息を整えて、その後の「それは僕で、」の読点でも同様に一度立ち止まることで、句の増加をあまり意識しないままに短歌定型的韻律で読むことができる。三首目も同様で、初句が十二音としても、「しろくまカレー/ライス園」という七音+五音の構造とその後の一拍の休符を意識することで、短歌定型的韻律にのせて読むことが可能であろう。

もちろん、韻律感覚には個人差があり、先に上げた歌の韻律についていくら説明されても納得できない、ということはあると思う。しかし(余程の純粋短歌論者というわけでもない限り)歌人はある程度の字余り・字足らず・句跨りなどを許容して歌作・鑑賞を行っている。このような現状がある以上、許容のレベルは異なるとしても「破調構造を持つ歌を自然な韻律で読み解ける」事例もまた一定数存在し得ると言えるだろう。ここにおいて、破調構造のどこまでが自然な短歌定型の韻律として読めるのか、また破調構造があったとしても自然な韻律で読めるということがどのような作用の上になりたつのか、といった疑問について考えることは非常に重要である。

近年、阿波野巧也が「京大短歌21号」で、永井祐が「短歌」時評でそれぞれ韻律について論じるなど、短歌韻律に対する議論の機運が高まっている。その一方で、先述のような破調構造にまつわる諸々の疑問についてはまだあまり論じられていない。そこで本論では短歌における破調構造を取り上げ、これらが自然な短歌定型の韻律で読める——つまり、定型ではないが「定型っぽく読める」ときに働く読みの機構について考察する。また考察より帰納的に、短歌における破調そのものについて理解するための仮説を提示する。

なお、本論中では字余り・字足らず・句跨りなどの破調を発生させ得る歌中の構造を「破調構造」、実際に自然に読むことが困難である可能性が高い歌の韻律を「破調」と呼び、両者を区別する。

2 『短詩型文学論』に基づく検討と疑問  

岡井隆は『短詩型文学論』において、短歌の韻律の原型として「等時拍リズム」(日本語の音声の単位として〈拍〉——例えば「春」という語がハとルの二音で出来ていると考え、ハ・ルのそれぞれが「一拍」であるとする——を置き、この〈拍〉が同じ長さをもって発音されるときに発生するリズム)を想定し、これに対して「意味のリズム」(単語ごとに〈拍〉がまとまって意識されるときのリズム)、「韻(音色)のリズム」(発音の難易や連結によるリズム)、「句のリズム」(五・七調のような句わけによるリズム)、「視覚のリズム」(ひらがな・漢字など文字表記の違いによって生じるリズム)という四つのリズムが干渉することで韻律を構成するとした。

ここで着目してみたいのは、干渉因子のうちの「句のリズム」の効果である。岡井は次のように指摘している。

 ……われわれは、拍を「点のように意識している」のではなく、いわば一定の長さの線分となってはじめて拍数を意識するのではないか。拍よりは拍のあつまり(音声学にいう音結集)が、一定時間つづく筋性努力の持続の感覚として意識されるのではないか。……われわれは字余りや字足らず(拍余り、拍足らず、というべきか)の場合、字余りのときは少しテンポを早めて一拍一拍を短くよんで(つまり拍の等時性をくずして)その句の基本時間量に、大体、合わせようとする(つまり「拍のあつまり」の等時性を保とうとする)。

岡井隆『短詩型文学論』

 

岡井の指摘は、破調構造を持つ歌を自然な韻律で読み解けるという現象の一部が実在しうることを示唆し、また疑問の一部についてそのまま解答となるものであると解釈できる。つまり、最初に挙げた三首でいう藪内作品のような、句における微妙な音(拍)の増加・減少(字余り・字足らずという破調構造)を含む歌が短歌定型的韻律に沿って読めるというのはあり得ることで、それは私たちの読みにおける「拍のあつまりの等時性を保ったまま読みたい」という欲求の結果として起こり得るのである、と。

しかしこの把握では、最初に挙げた千種作品や溺愛作品のような破調構造を上手く説明できるかというと疑問が残る。というのも、これらに見られるのは五拍から七拍という短歌詩形においては決して短いとは言えない〈拍〉の増大であり、むしろその拍数から、句自体の数が増加しているような印象さえ受けてしまう。そのため、先で述べたような字余り・字足らずと同様の範囲で括ることができるかは、一概には判断しきれないように思われるのである。

岡井は短歌定型を、(基本的に)三十一拍という一定の音量をほぼ五等分に分割する、という「音量および音量比に関する規定」であるとみていた。この考えを借りると、一首のなかに句の増加があることは規定外のことであり、即破調であると判断されるように思われる。だが冒頭に述べたように、千種作品も溺愛作品も、見方によっては短歌定型的韻律に落とし込んで読むことが無理ではない。

規定から見れば句の増加という明らかな破調構造を含むものの、破調でないように捉えられる、という問題は、単なる個人的な韻律感覚の差異で片付けられるものなのだろうか。それとも、何かもう少し多くの人間に共通して実感されるような読みの機構が存在するのだろうか。あるとしたら、それはどのような機構なのか。これらの疑問に解答するためには、さらにいくつかの検証が必要になる。

3 句切れの作用の検討

千種作品および溺愛作品のような句の増加がある作品でも、短歌定型的韻律で読める場合がある、と私は主張してきたわけであるが、これらの作品を振り返ってみると、ある共通点があることに気づく。それは増加分の句の前あるいは後に、句切れが想定されているという特徴である。この句切れという構造にこそ、何かこの奇妙な現象を読み解くカギが隠されているのではないだろうか。

先行研究において、阿波野巧也と永井祐は、

くもりびのすべてがここにあつまってくる 鍋つかみ両手に嵌めて待つ

五島諭『緑の祠』 

をそれぞれ次のように捉えて読んでいた。

……このこと(筆者註:小島ゆかりによる〈くもりびの/すべてがここに/あつまって/くる 鍋つかみ/両手に嵌めて待つ〉という読み)に驚いた。初読のときから、〈くもりびの/すべてがここに/あつまってくる/鍋つかみ両/手に嵌めて待つ〉と読んでいたからである。

阿波野巧也「口語にとって韻律とはなにか——『短詩型文学論』を再読する——」

 

……〈くもりびのすべてがここにあつまってくる/鍋つかみ両/手に嵌めて待つ〉または、〈くもりびの/すべてがここにあつまってくる/鍋つかみ両/手に嵌めて待つ〉と読んでいた。つまり初句から三句までを読み下すような形で読んでいた。わたしは三句の二音字余りを「やや無理」と判断して、読み下しパターンに切り替えて読んでいるのだと思う。

永井祐「私たちの好きな句跨り」

阿波野・永井両者の韻律に対する読みをみると、彼らは短歌の韻律について分析するとき、まず自分の読みにおける句切れの位置を規定することから始めている。つまり、句のリズムを他のリズムよりも優先して判断し、その後に詳細な分析を進める、という手順を踏んでいるわけであるが、このような韻律の捉え方の過程はおそらく多くの人にとって納得できるものであるだろう。まず自分のもつ韻律感覚にとって最もしっくりくる句の切り方を規定することから読みを進め、初読時の規定が「可」であればそれを採用し、「不可」であれば(永井が読み下しパターンに切り替えたように)もう一度最初から歌を読み直して新しい句の切り方を規定し、「可」が得られるまで探索を続ける、という韻律把握のための過程を、私たちは確かに行っているように思われる。

この手順を私たちが踏んでいるとしたら、私たちは短歌に対峙するときに「どこかに句切れがあるはずだ」という想定を常にしていることとなる。言い換えるなら、五・七・五・七・七というほぼ等音量の反復による響きを期待しているのである。このような想定や期待を持つ私たちが短歌を読んでいるとき、もしも五拍から七拍ほどの音量の、定型通りに見える句のようなものが句切れを伴って現れたらどうだろう。私たちはその句切れで一度息をついて、その句のようなものがあたかも正規の句であったように錯覚したまま、また読みを再開して次の句に移っていくのではないだろうか。

句のリズムは、他のリズムよりも優先的に三十一拍の音量を分割していることは、先に確認した。ただし、句のリズムによって分割されていてもそれぞれの句は有機的に結合しており、決してばらばらに認識されるようなものではない。このとき句のリズムによる分割とは、実は完全なる断絶ではなく、初めから終わりへと連続して進行する読みの流れの速度を、句切れが「一時停止+再生」という作用をもって緩めた結果、認識されていたのだと考えられる。

この「一時停止+再生」の作用が断続的に複数回、読みの流れに関与するとき、私たちはそれが何回作用したのか、初読の最中はおそらく深く意識していない。というのも、句切れがその歌のどこで合計何回作用していたのかということは、歌を一度最後まで読み下した段階ではじめて確認できる事柄である。先述のような韻律に対する規定は、正確には初読の後になされるのであり、初読の最中は句のようなものについての錯覚を許したまま、次の音へ次の音へと読みの流れを連続的に進行させるほかないのである。

ここまでいくつかの仮定と検証を行うことで、「句の増加という破調構造が存在しても短歌定型的韻律で読むことができる」という現象がようやく見えてくる。つまりこの現象は、増加している句のようなものを正規の句として捉えてしまう初読時の錯覚が韻律的な規定に残存しているために、その後破調構造に気づいたとしても初読時の規定にしたがって短歌定型的韻律で読めてしまう、という読みの機構の間隙をつく形で存在していたのである、と。

4 結論および仮説

本論では、定型ではないが「定型っぽく読める」ときに働く読みの機構について、いくつかの仮定と検証を行いながら考察した。このなかでは、微妙な拍の増加・減少がある場合については岡井による分析をそのまま用いて説明ができ、句ごと増加するような場合については句切れ(句のリズム)の作用を詳しく検討することで説明ができるということを示した。本節ではこれらの考察から、破調や短歌の韻律についていくつかの仮説を提示して論の結びとしたい。

第一に提示したい仮説は、岡井が分析した四つのリズム干渉因子において、句のリズムが最も先に検討されるという「句のリズムの優先仮説」である。第3節での検証より、句のリズム(句切れ)の作用は、他のリズムに比べて強く等時拍リズムに影響するように思われる。岡井は句のリズムについて「五行詩や三行詩の概念にまで変形し得るもの」として考え、必ずしも短歌固有のものであるとはしていない。しかし短歌固有のリズムではなくとも、句のリズムが他のリズムよりも読みにおいて影響の大きいものである可能性は、ある程度経験的に実感できるものであると考えられる。

第二に提示したいのは、「句のリズムの優先仮説」を想定したとき、短歌における破調構造とは句のリズムの優先が他のリズムによって脅かされるときに生じるとする「リズム優先順位変更による破調構造発生仮説」である。これは例えば、句跨りは意味のリズムなどが句のリズムよりも優先された結果として生じている、という風に破調構造を理解するという仮説である。例として挙げた句跨りについては、阿波野が既に意味のリズムと句のリズムの融合として生じ得ることを示唆しているが、これを少し広義的に言い換えた仮説であるとも言えるかもしれない。『岩波現代短歌辞典』を引くと、破調は「甚だしい字余りや字足らず、あるいは句またがりや句割れによって定型の本来的な諧調を壊すこと」と述べられているが、この破調を成立させる破調構造がどのような過程で成立するのかを説明している論は少ないため、ここに提示する仮説が発生過程を説明するための好適な解となる可能性がある。

以上、破調にまつわるいくつかの疑問について仮定を立てて検証し、その考察から破調についての理解を更新するためのいくつかの仮説を提案した。不完全な論ではあるが、これらの検討と仮説を足掛かりに、さらに研究を続けていきたい。

(「塔」2016年4月号所収)

 

砂丘律

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短詩型文学論

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岩波 現代短歌辞典 普通版

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