丘と水路と橋と火を

言葉と技術

短歌は〈わたしたち〉の文学である

序 短歌は〈私〉の文学か?

 短歌は〈私〉の文学である――本当に?
 明治中期の和歌革新運動にはじまる個の意識の発展と近代短歌への移行。アララギ派による写実主義の歌壇全体への浸透、その主義のモラル化による自我表現の硬直や画一化。そして戦後の前衛短歌による〈私〉に対する数々の分析と、硬直した〈私〉からの脱却 ――これは『岩波現代短歌辞典』の「私性」の項(執筆・穂村弘) の粗筋だが、こうした認識に異議はない。「短歌は〈私〉の文学」と述べるとき、そこには短歌において〈私〉という要素が歴史的経緯や詩型自体の特性として重要視されてきたという含意がある。
 一方、そのような〈私〉のみを全面に押し出して「短歌は〈私〉の文学である」と語るとき、実は〈私〉の影にこの詩型の〈私〉以外の重要な側面が隠されてしまっているのではないか。
 一般にわたしたちが言語において《私》と語るときには、聞き手など《私》以外の他者が想定されている。寺山修司が「対象と自分の距離がなければならぬ。それは距離なしには批評が不可能だからである」(『われに五月を』)と語る ように、短歌においてはむしろ《私》という語りに対して距離を有する他者こそが、芸術的な批評性を有した詩型の成立のために必要不可欠だったはずなのである。

(前略)〈私〉への世界の見え方と「私」の人生とに密接な関係があるという前提、それが「私性」なのではないか。(中略)別の言い方をすれば、私性とは、ななめうしろから撮ることである。作中主体が見ている風景を、作中主体の(人生の翳りを帯びた)背中をも構図にふくめ、ななめうしろから撮るシーン。それが近代短歌ではなかったか。
斉藤斎藤「生きるは人生と違う」

 永井祐は斉藤の論を踏まえて、FPS(一人称視点のシューティングゲーム)・TPS(三人称視点のシューティングゲーム)という語を用いながら、近代短歌の〈私〉の視点がTPS的であること、リアルに思えるFPS的な視点や「言葉を現実の発語に限りなく近づけるという意味での口語の徹底」ということのみに口語短歌のリアリズムがまとめられるわけではなく「もっと曖昧な多方向へ拡散するのだろう」ということを述べる(「口語短歌とリアリズム」) 。
 斉藤は主に読解の場面を、永井はもう少し制作に近い場面を意識していると読めるが、〈私〉という視点が単一の視点からではなく複数の視点の重なったものから成り立っている感覚は両者とも認めている。つまり読解・制作の両方において、短歌に関わる視点には複眼的性格があるとみることができるのだが、この感覚は納得できるものだろう。誰の言葉かに依らず、言葉は発語の後は必然的に生身の「私」の外にあり、「私」とは異なる〈私〉として「私」に読解され、その「私」に継続的なフィードバックを与えている。読解も制作も、「私」と〈私〉という複数の視点からの行為なのである。
 短歌と向き合うとき、読解・制作の両面でわたしたちは複数の意識とともにある。〈私〉や「私」など複数名による視点――いわば〈わたしたち〉の視点とでもいうような複眼性があるのである。

一 短歌における内容としての複数性・応答性

芸術の本質行為は、形体が作品となる過程を決定する。〈向かい合うもの〉は、出合いによって充実され、出合いを通して、事物の世界にはいってゆき、たえず活動をつづけるために、たえず〈それ〉となるが、しかし、喜びと刺激を与えながら、たえずいく度も〈なんじ〉となる。
マルティン・ブーバー『我と汝』

 ブーバーは〈われ―なんじ〉と〈われ―それ〉という二つの関係を「根源語」として検討した。ここで〈われ―なんじ〉とは直接的・相互承認的な関係であり、〈われ―それ〉とは間接的・一方的な関係である。ブーバーは各存在がすべて関係のなかに現れると述べ、なかでも〈われ―なんじ〉という相互承認による直接的な関係が原初にあり、〈なんじ〉に対して客観的な把握を試みることで〈われ―なんじ〉から断片的な対象との関係〈われ―それ〉に変化していくと指摘した。そしてブーバーは、芸術制作やその制作物への鑑賞といった行為には、〈われ―それ〉が再び〈われ―なんじ〉として現れるという関係の推移が成立しうると示唆した。
 ブーバーが指摘する〈われ―それ〉と〈われ―なんじ〉の関係の揺れ動きは、短歌の読解においても重要となると思われる。

あの夏の数かぎりなきそしてまたたつた一つの表情をせよ
小野茂樹『羊雲離散』

 この一首を読むとき、読者は〈私〉だけを認識するのではなく、「表情をせよ」という命令・懇願の対象となっている他者を同時に意識する。そして読者は、読んでいる生身の「私」が次第に〈私〉に近づいているのを感じ、〈私〉を追体験するように「たつた一つの表情」やその表情を有する他者に触れる。この読みの感覚に基づけば、短歌の読みは〈私〉や「私」や他者が互いに独立に存在することによってではなく、互いに関係しあっていることによってこそ成立している。そしてそのなかで、対象の世界の〈私〉や他者が、親密で直接的な存在として「私」の前に現れるのである。
 短歌制作もまた、複数名による行為がその根源にあるといえる。

夕光(ゆふかげ)のなかにまぶしく花みちてしだれ桜は輝(かがやき)を垂る
佐藤佐太郎『形影』

 この歌を「私」が詠もうとしていることを想像してみる。あるひとは実際に桜を見つつ《しだれ桜は…》という表現に到達するかもしれないし、またあるひとは李白杜甫の作品を思い浮かべながら表現に到達するかもしれない。しかし大事なのは、このパターンのいずれにおいても、この歌を詠もうとする「私」や作品に現れるであろう〈私〉、そして対峙する他者の姿が同時に浮かび、その関係のなかにこそそれぞれの存在が成立しているということであろう。

(前略)〈私〉が「表現」に接続される場面において〈私〉は問われ、その問いかけに応える答えとして、「私」は言葉へ語り現わされるのである。「私」が語りだされたものとなるために、〈私〉は問われる必要があり、そのように問うという仕方で「私」を語りだす〈私〉は、語りだされる「私」とは、すでに同一のものであることができない。
谷口一平「存在と抒情――短歌における〈私〉の問題」

 現実に生きる存在と、言葉の世界に語りだされる存在との分岐という意味では、たとえそれが自分自身にまつわることであったとしても、語る存在によって語りだされる対象となった瞬間、短歌における〈私〉は「私」とは別の存在である。そして短歌において〈私〉というものの存在が大きいのだとしたら、この分岐のもう一方の先端にある「私」もまた、同様に存在として重要なのである。
 このような発想に立つときもまた、単一のものとして〈私〉があってそれが短歌を成り立たしめているという理解ではなく、「私」や〈私〉そしてさらにその外部の他者との複数による相互の応答に短歌が立ち上がると理解する方が適切であろう。ここで現れている関係は、ブーバーがいうところの〈われ―なんじ〉のように、互いになくては存在が成立し得ない、親密で直接的な関係である。
 読解・制作のいずれにおいても、「私」や〈私〉などさまざまな存在が相互に作用しあう。このように複数的・応答的な性格が強く現れているのが、〈私〉とともにある短歌の性質なのである。

二 短歌における形式としての複数性・応答性

 さらにいえば、短歌における複数性・応答性とは、そもそも詩型自体に内蔵されていたものであると考えられるのではないか。このことについて考えるために、短歌の形式的側面を検討したい。
 短歌に固有のものとは何か? その問いに対して最も確からしい答えとなるのは、五・七・五・七・七という短歌における定型の存在となる。この短歌定型を固有のものとおく見方を出発点として、永田和宏は「『問』と『答』の合わせ鏡」という構造を指摘した。

(前略)上句と下句の円環、「問」に対する「答」があり、「答」がさらに新たなる「問」となって、はじめの「問」そのものを問いかえすような(中略)その合わせ鏡構造こそ、私にとって短歌定型のもつ最大の魅力とも言えるものなのだ。
永田和宏『表現の吃水――定型短歌論』

 ここには短歌を上句・下句という二つに分割し、短歌一首としての印象がその二者の相互作用に生じるとする見方がある。この二分割の容易さと、その二者間での相互的な応答性ということは、実は短歌の形式についての特徴とみて良いのではないだろうか。
 短歌における二分割の容易性について考えるには、短歌における「切れ」について検討してみることが効果的である。

撃たれたる小鳥かへりてくるための草地ありわが頭蓋のなかに
寺山修司『テーブルの上の荒野』

 短歌のリズムについて、わたしたちはそのなかにいくつか異なる位相での「切れ」を認識している。その一つには意味上の「切れ」があるだろう。例えば寺山作品では第四句の中間で一度「切れ」があると認識して読めるが、これは「あり」という語が終止形であるという構文的な要因によってそこで一度意味が断絶するのだと解釈可能であるからである。一方で、短歌には句による韻律上の暗黙的な「切れ」も存在している。寺山作品でいえば、意味としての「切れ」が第四句の途中にあるとわかっていても、読解する際にはリズムとして「うたれたる・ことりかえりて・くるための・くさちありわが・ずがいのなかに」という短歌定型の句ごとの韻律的な断絶がある。さらに第四句目「草地ありわが」は「くさちあり・わが」と読まれるよりも、「くさちありわが」という一続きのリズムとしての方が意識されやすい(浅野大輝「『定型っぽく読める』を考える」における「句のリズムの優先仮説」) 。句による「切れ」の作用は意味による「切れ」の作用に先行しうるのである。
 さらに句による「切れ」については、その「切れ」のなかでも韻律上の断絶の間隔に差異があることが指摘できる。岡井隆は『短詩型文学論』において句のリズムを三十一拍という一定の音量をほぼ五等分に分割するものとみている が、このように各句に等しい間隔を求める場合には、休符でその長さを他の句に近づける必要のある五音の句の末尾の方が、七音の句の末尾よりも強く断絶感をもって意識されることとなる。またさらに岡井の言を引用するなら、「現代の短歌は(中略)(五、七、五)(七、七)すなわち、比較的後世の発生といわれる上・下句意識でよまれることのほうが多い」(『短詩型文学論』)。 つまり第一句から第五句までの間に存在する四つの「切れ」のなかでも、第一句―第二句間と第三句―第四句間での「切れ」の方が間隔として長く、さらには第三句―第四句間という上句・下句での「切れ」の方がより強く認識されやすいのである。

聖母像ばかりならべてある美術館の出口につづく火薬庫
塚本邦雄『水葬物語』

 この一首を読んだとき、個人的には確かに「ある美術」という箇所でいったん大きく一息つく感覚がある。さらにいえば「ある美術」のあとの一呼吸は、「聖母像」のあとの一呼吸と比べると間隔として同等かあるいはより長く感じられるのではないだろうか。「聖母像・ばかり」という自立語+付属語の比較的分離しやすい組み合わせによる「切れ」のパターンと比べて、本来「美術館」と続けて発話される一語を句跨りに利用しているパターンが同等かそれ以上の間隔を有することは、興味深い現象であるといえる。
 意味による「切れ」は、作者や読者の意思によって構文的に無理がない範囲で移動可能であるために可変的な「切れ」である。一方、句による「切れ」はそもそも詩型に内蔵されたものであるがために不変的な「切れ」である。詩型として「切れ」のなかで不変的であり、さらに「切れ」として分割の作用の強さを特徴的に有するというなら、上句・下句という二分割には詩型として大きな意味がある。ときに意味による分割を凌駕して実施されるほど、この形式上の二分割ということは短歌において行われやすいのである。
 上句・下句というような二分割が容易であるとき、その二分割を抱えながらも一首として統合されるためには、その二分割された双方が何らかの形で応答して作用しあい、二者という複数でありながらあたかも単一のものとして振る舞う必要がある。このような二者による単一的なものとしての振る舞いが、永田による「『問』と『答』の合わせ鏡」などの指摘につながると言えるだろう。短歌はそもそも形式として二分割されやすいのであり、そしてその二分割の容易性によって詩型として複数性と応答性を内蔵するのである。

結 短歌は〈わたしたち〉の文学である

 短歌の特異さとは、内容と形式の両側面において、複数にわかれたものたちが応答しあう構造を有しているという点にある。
 短歌を「〈私〉の文学」と述べているとき、その言及は短歌の特異な性質を意図せず隠してしまう。短歌に何か豊さとでもいうべきものを感じるのだとしたら、それは何か単一のものから生まれているのではなく、応答という二者あるいはそれ以上の複数によるものの間でのやりとりの上に生まれたものであるはずなのである。
 もしも〈私〉という語を用いて短歌を説明しようとするなら、そのとき我々は〈私〉が親密に応答し合うような他者の存在――ブーバーの〈われ―なんじ〉を意識するなら、いわば〈あなた〉とでも呼称されるもの――についても言及した方が適切であろう。「私」や〈私〉やその外部の他者といった複数名が、あるいは上句・下句といった構造の両者が、互いに互いを〈あなた〉という親密で直接的な関係とみて応答しあうような、相互承認的な関係の重なりにこそ、短歌という文学は成り立っている。そうした「私」や〈私〉が〈あなた〉と呼びあって、次第に〈わたしたち〉とでもいうような複数でありながら統合された存在となっていくプロセスに言及することこそ、短歌へのより適切な理解をもたらすのだといえるだろう。内容としても形式としても、短歌とは〈私〉と〈あなた〉による〈わたしたち〉の文学なのである。

(「塔」2021年9月号)

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